• ミャンマー漆器

    漆器

    漆工芸はミャンマーを代表する伝統工芸である。日本の縄文時代の遺跡からは漆を施した発掘品が時々出るが、ミャンマーの漆器の歴史もかなり古い。もともとは、竹や木のような素材で作られた生活用具を虫や水によるダメージから守るために漆の樹液を塗ったことが原点である。日本も同様であるが、化学的な調査をする技術が無かった頃、既に漆の樹液に防虫や撥水効果があると気付いた人がいたのである。

    そして徐々に「生活に彩りを」と、色柄を加飾することが始まり、嫁く娘にきれいな道具を持たせたいと、より綺麗な仕上げが登場した。また熱心な仏教徒であるミャンマー人は仏陀や僧侶に食べ物などを寄進するが、このための器として仏教の教えを文様にした複雑な柄が登場したり、王宮で使用される道具としても美しい加飾が必要となったと思われる。ミャンマーの漆器に金箔や鮮やかな赤が使用されているのはその所以だろう。 漆の樹液はとてもミステリアスな素材と聞く。いまだにその全てが解明されていないそうだ。乾燥するにはある程度の湿度が必要とのことで、その特性がミャンマーに漆工芸を根付かせたのかもしれない。

    馬毛胎を編む女性職人
    馬毛胎を編む女性職人
    ミャンマーの漆器素地の多くは竹である。細く割いて捲く「捲胎(けんたい)」、編む「らん胎」という技法の素地に漆を塗る。馬の毛と竹で編む「馬毛胎」という素材もある。丸い形が多く、木のくりぬき素地と異なり、捲いたり編んだりした素地の凸凹が仕上げにも反映されている。その素地に「きんま」という技法で柄を彫ったものがミャンマーを代表する漆器で(注:きんま参照)、ミャンマーを訪れる殆どの観光客が魅了される。

    日本の高松にも「きんま」の技法があるが、本家本元はミャンマーである。 15年前初めてミャンマーを訪れた際、日本とは趣のことなった現地の漆工芸は驚きであった。人々の生活の中でごく自然に使用されている道具としての漆器、仏陀や高僧に寄進するための漆器、欧米人に人気の高いアンティークと、それぞれに魅力があった。日本人の日常生活からは漆器が消えてしまった理由として、扱いが面倒、高額という理由の他に、食生活が変わってしまったこともあるかもしれない。

    しかし、ミャンマーにある外国人が宿泊するホテルでは、食器のアンダープレートに、バター入れに、果ては灰皿にと、いたるところに漆器があった。捲胎の特徴とも言える凸凹がいい味をだしていた。ホテルのレセプションには少し朽ちた感じの大きなボールが置かれ、水をはって花が浮かんでいた。「きんま」と呼ばれる由来となった筒状の「噛みたばこ入れ」は、捲胎技法で筒状になっているが、アンティークのものは、漆が少しはげて朽ちている感じが良かった。「かけている」ことにこんなに魅力があるとは、それが歴史であるとミャンマーの大地が教えてくれているようでもあった。ただ、日本での販売を考えると、凸凹の感じや「かけ」は、漆は「Japan」だと自負してやまない日本人には受け入れられないだろうと思っていた。

    バガンのパゴダ
    バガンのパゴダ
    ミャンマーの漆器の大産地は「バガン」というバガン王朝が栄えた場所である。パゴダと呼ばれる大きな寺院が無数にあり、乾燥地帯であるが、緑もある。空からバガンを見ると、緑の中にレンガ色や白、金色のパゴダが見え、ミャンマーでNo.1の観光地である。バガン王朝は200年近く長く続いたこともあり、王族が使用する漆器の需要も多かった。バガンが漆器の大産地となった所以である。

    ミャンマーを訪れる観光客は必ずバガンを訪れ、漆器を土産品として購入する。15年前、ミャンマー政府が打ち出した観光プロモーションにより欧米からの観光客が増え、漆器は土産品としてよく売れていた。バガンは活気づいていたが、同時にお土産品としてそこそこの仕上げのものが結構な価格で売れてしまうという「旨み」も経験してしまっていた。現地に住みついたフランス人がバガンの漆職人を雇いあげ、ミャンマーの技術を使って自分達の好むデザインで漆器を作り始め、ミャンマーを代表する漆工芸はどうなってしまうのかと心配になった。

    バガンには政府直轄の漆学校があり、漆工芸に携わる人材育成を細々ではあるが行っていた。同じ漆の技術を持つ日本から専門家を呼び、ミャンマーの漆技術を向上させて欲しいという要望も出された。漆器工房の経営者の間では、これからのバガンの漆器をどのような方向に持ってゆくか真剣に議論し始めた。

    ちょうどその頃、日本の新聞に会津若松のある漆工房の社長がコメントを寄せていた。日本の漆工芸の今後について、である。「漆器が日本人の生活で使われなくなってひさしい。このままでは衰退の一途をたどる。日常生活で使ってもらうための漆を塗った用具を、生産者がもっと工夫すべき」という内容であった。ヤンゴンからこの方に連絡をして、色々とお話を伺ったところ、お碗、お盆、重箱などという伝統的な製品ではなく、ペンやライター、パソコンに漆を施す、電源コンセントを漆で加飾してインテリア風にしてみるとか、漆を日本人の日常生活に取り戻すための既成概念を超えたアイデアがいくつも出された。

    今はもう市場に出回っているが、15年前は「なるほど」と思える前衛的な考え方であった。 一方バガンの漆工房にとって乾燥に時間がかかることが一番の問題点であり、オーダーをもらっても納品までに時間がかかり過ぎてキャンセルになってしまう。また漆の樹液も、年々品質が悪くなり、精製の方法など、基礎的なことも含め具体的な質問に答えてくれる人を求めていた。私達は会津の漆工房の社長にミャンマーに来てくれるよう依頼し快諾を得た。1週間の滞在であったが、乾燥を含めた色々な質問に、工房で実際に実験をしながら丁寧に説明をしてくれた。しかし、いずれも「これからどのように改善をして行くのか」ミャンマー側の努力次第であった。改善のための経費は必要であっても後回しにされがちである。「売れるモノ作りの努力」と一口に言っても簡単なことではない。現地の人に単なる知識や数年先の可能性のためにお金を費やす余裕はない。航空賃を負担したからにはそれなりのメリットを、と主張しだした。すぐに活かせる成果が欲しい、と言い出したのだ。もともと自分達の要望で来てもらったにもかかわらず、知識のようなものではなく、作っている現場ですぐに反映されるノウハウが欲しい、という意味であった。

    どんな分野でも「伝統工芸」と呼ばれる工芸品を作り上げるための工程はいくつもあり、時間がかかる。どんな小さな工程にも一つ一つに意味がある。一朝一夕に変えられるものでもなく、変わらなかったからこその伝統工芸だ。どこをどう変えたら伝統工芸であることを守りながら品質を向上できるのか、それを探るせっかくのチャンスだったが、上手く活かすことが出来なかった。

    ミャンマーの難しさを実感し始めた矢先、蓮の繊維に関心を持った銀座の高級ブティックのオーナーがミャンマーに来た。ミャンマーの伝統工芸である漆を食器として販売したいという。しかし食器であることを明記して輸入する場合、通関時に検査が必要となる。ミャンマーだから、漆器だからという問題ではなく、輸入時に平等に行われる検査である。ミャンマーの漆器の加飾に使用されている顔料は鉱物顔料が多く、古くは日本の漆芸家も使用していた。この顔料が食器使用という分野での輸入検査では問題になるであろうということは明白であった。漆は一度固まると溶解しないという特徴があり、それ故にほぼ形状そのままに発掘される古代の器もある。器を食すわけではないが、口に入るものを置くという「触れる」現状から厳しい検査の対象となっている。日本人が長く使用してきている漆器も例外ではない。しかし、国内産は輸入品ほど厳しい検査対象になっていないようだ。日本人は漆器を食器として利用してきた長い歴史があるので、制作する側も使用する側も十分心得があるということだろうか。漆器を食器として使用しましょうと、販売する側がわざわざ提案する必要はない。 しかし、ミャンマーの漆器の場合、販売時に制作工程の説明を丁寧にする方が良い。使用する側に注意を促すことが出来るからだ。そのためには販売する人間が現地の漆器制作の工程に精通していなければならない。

    ブティックのオーナーはそこまで深く考えていたわけではなかった。「単純に、美しいから、とても雰囲気が良いから、というイメージでの販売」である。ミャンマー側にしてみてもその理由だけで十分であったに違いない。ただ、漆に限らず「伝統工芸品」の分野は、販売する人間がきちんとした知識を有しているかどうかが大変重要なことであると思う。誤解を招くような説明をしてしまえばその国の伝統工芸のイメージを傷をつけかねない。

    2011年、アジア漆工芸学術支援事業のバガンでのワークショップで「顔料の問題点」について説明をしていただく機会を得た。この中で、ミャンマーの漆器を食器として販売することの難しさをバガンの漆器工房に直接訴えた。最近になって、現地の漆学校や漆器工房の中で「食器使用として諸外国の輸入検査を合格するような顔料」について真剣に考え始めたと聞く。もしかしたらミャンマー漆器の伝統的な色は無くなって行くかもしれない。何千年もの昔から生活用具として使われてきたもの、近年になって大量生産ベースで人々の生活の中に登場してきたもの、どれも一旦消費者の手に渡ればそこから先は使う人の問題である。消費者が困らないように商品の説明書には注意事項がたくさん明記されているが、自分を省みても文章だけで全てを理解出来るものではない。口頭での説明の重要性を実感する。

    きんまの文様
    きんまの文様
    私達はミャンマーの漆器をこよなく愛している。仏教徒であることを意識した文様、形状、そして何とも温かみのある凸凹の質感。伝統的な色、形状そのままに、また限りなくその伝統色を活かしてオリジナル製品を作り、現在の日本人に生活用具として楽しんで欲しいと願う。だからこそ「長い間継承されてきている現地の制作過程があってこそのミャンマーの漆器」であると説明をしながら販売を続けている。

    注) 蒟醤(きんま) 黒または朱の漆塗りの上にアカシア属の木の樹脂(アラビアゴムの原料)を水に溶かしたものを塗り、全体を保護する。角棒の先端をななめにした刃物で浅く掘りを施し、地の色と異なる漆を塗り込み、乾燥後水洗いで保護した樹液をふき取ると彫を施した部分のみ色が残る。同様にして彫りを施した部分に違う色の漆を塗り込んで行くことによって模様を表現する加飾技法。 通常色は3色で朱・緑・黄の順番で色を入れる。

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  • マンダレー刺繍のオリジナル

    マンダレー刺繍のオリジナル商品

    「ミャンマーの伝統的な工芸技術を活かし、いわゆる“アジア雑貨”を超えて、ファッションアイテムとしての可能性を追求する」という強い思いを抱き、「出来る」と確信させてくれたのがこのマンダレー刺繍。 18世紀後半のマンダレー王朝時代に王族の衣装として作られていた刺繍であるが、近年では王朝時代の物語や仏教の経典に関連したモチーフが額装されたり、幸運をもたらす象やふくろうなどを刺してポーチなどにする等、刺繍の良さを強調するというより「絵」としてその存在を残していた。また人物や象を立体的に見せるために裏布との間に綿を詰めることが多かった。

    同様の刺繍はタイやインドにも見られるが、マンダレーの刺繍工房はメタルビーズという円盤の形をした小さなビーズ(銅板をたたいて薄くしたもの)や、金糸、銀糸や金銀と一緒に撚ったカラフルな糸を、下地の布(黒の綿ベルベット)が見えないほどにふんだんに使用している。これだけの手間暇をかけたものを額装してただ観賞用にとどめることは非常にもったいないというのが最初の印象である。また、額装されたマンダレー刺繍の古いもの(20から30年ほど経過したもの)は経年変化によって味わいを増し、若い作品とは異なった「いぶし銀」のような落ち着きがあった。しかし残念なことに、当時お土産品用に作られたマンダレー刺繍の殆どは、メタルビーズの使用料も少なく、糸刺繍も複雑ではなく、デザインも簡素なものが多かった。 私達の目標は「マンダレー刺繍の特徴を活かしたお洒落なファッション雑貨」である。そのためにはまず良い工房とパートナーを組むことだった。マンダレーの刺繍工房
    マンダレーの刺繍工房

    マンダレー刺繍の工房はローカル色が強く、英語があまり通用しない。一番重要なことはハンディクラフトに精通したヤンゴン在住のMayさんとの共同作業であった。私達の注文をよく理解し、良い素材(メタルビーズ、金糸、銀糸、色糸など)をふんだんに使用してもらうことなど、Mayさんから工房への説明が全てであると言っても過言ではなかった。

    私達が起こしたデザインをスキャンしてMayさんへメールで送る、Mayさんはプリントアウトしてマンダレーへ向かうローカルバスの運転手に託して工房へ届ける、工房に届いたらその絵を見ながらMayさんが電話で細かい説明をする…というような流れだ。しかも電話事情がよくないため、大声で、殆ど「叫ぶ」というような状況。1カ月後作品がヤンゴンに届き、その写真がメールで日本に送られてくると、まさしく当初の「絵」そのままの出来上がりだった。さらに実物を手にした時の驚きと感動…。「絵」に込めた「こんな感じで・・」というようなイメージまでが、全て実際の作品に結実していた。 マンダレー刺繍のバックはミャンマーでお土産品としては多く販売されていたが、刺繍のデザイン、バックの形、持ち手の形や素材など、とてもファッションアイテムとは言えないものだった。しかし作り方次第ではファッション性の非常に高い作品になると信じていた。しかし何事も試作品が無ければはじまらない。

    MAAMsのオリジナル作品の多くは大島さんの手によって試作品が出来上がる。試作品なのだから取りあえず「手元にあるものを使って」作ってみるのだが、「あるものを活かす」ための工夫、技術は大島さんの右に出る人はいない。私達は、額装されたマンダレー刺繍の良いものを利用する事から始めた。もともと額装するために作られているのだから、布の裏は糊で固められ、縫い代もなく、外してはみたものの、バックになる姿を想像することも難しかった。
    昼間の売り場での立ち仕事で仮縫い作業、「後は帰ってから夜にミシンを踏みます」と言ってくれる大島さんの顔は、ミャンマーの人達同様に生き生きと輝いていた。翌日、縫った部分を見ながら「ここをこうしたらこうなります」という説明を受けた。こうして毎日少しずつ出来上がるバック。毎朝売り場に向かうことが楽しみだった。そしてついに「マンダレー刺繍を使ったお洒落なファッションアイテム第1号」は完成した。 マンダレー刺繍のXmasデコレーション
    マンダレー刺繍のXmasデコレーション

    大島さんの生き生きとした表情そのままに作品もキラキラと輝いていた。試作品ではあったが、売り場に置くとすぐにお客様が手に取り、売れた。ミャンマーのマンダレー刺繍であることを知らず、ただ「素敵だから」と購入してくださった。この時の喜びはどんな表現を使っても言い尽くせない。まさに単なる“アジア雑貨”から抜きんでた瞬間だった。
    これが契機となり大島さんとの、本格的な「ミャンマーの伝統工芸を本格的なオリジナルファッションの世界へ」の道が始まった。来店されるお客様の「これでこんなものがあればいいのに」という声を聞き、試作品の反応を見ながら他店で販売されている商品も勉強した。そして出来上がりの作品を想定してマンダレー刺繍の制作を依頼、ここからはMayさんに託し、ススさんにも色、デザインへのアドバイスを頼んだ。

    チームワークによるマンダレー刺繍のバックはいつも完売、私達の自信へと繋がった。後に「こだわりのステーショナリー」のアイデアにも繋がり、CDケース、ブックカバー、眼鏡ケースなど次々とオリジナル作品を作り上げた。

    3年前に開発したブローチはMAAMsの人気アイテムとなり、男女問わず、今でも10代から70代まで幅広く人気を集めています。

    こうして出来上がったマンダレー刺繍のオリジナル作品はMAAMsを代表する作品です。

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  • 白蝶貝のオリジナル商品

    白蝶貝のオリジナル商品

    ミャンマーの西側と南側は海に面している。南部のアンダマン海に浮かぶ小さな島には天然の白蝶貝が生息している。巻が厚く黄色とも金色とも言えない色が貝の淵を彩っている。乳白色の真珠はもちろんのこと茶金パールと呼ばれる淵に出る色そのものの真珠も採取される。貝の直径は大きなものは20センチを超え、厚みもある。真珠そのものの価値は言うまでもないが、貝の価値は真珠に勝るとも劣らない。この貝を使った工芸品はミャンマーのお土産品としても人気があり、スプーンなどのテーブルウェアは実用品としての需要もある。
    欧米では、高級時計の文字盤に白蝶貝が使われるなどその希少価値を理解している。「アジアだから安値でなければならない」という固定概念がない。しかし天然素材が当たり前のように身近にある日本人には「日本のものが一番」と考えがちだ。「アジアの商品は安ければ買う」という意識は、雑貨を輸入販売する側、消費者ともに根強い。
    そのような現状で、私達は「ミャンマーの白蝶貝であること」を前面に押し出せるオリジナル商品の企画を試みた。安価だから購入する、という理由ではなく、「素材の良さやデザインを気に入ってくださって購入していただく」、という方向での商品開発だ。ミャンマーの白蝶貝は輝きとともに厚みがあって強度もある。この利点を生かしてカットした白蝶貝を山盛りにアレンジしたアクセサリーである。天然素材であるため、例え同じカットであっても色や輝きは異なっている。つまり全て「世界でたった一つしかないオリジナル作品」だ。
    この作品作りは10年を超え、MAAMsの定番として人気商品となっている。他のアジア雑貨に比べれば決して安くはないが、それには「それだけ手をかけている」という理由がある。MAAMsの作品は、全て、出来上がるまでにたくさんの人々の手間が加わって出来上がっている。安価なアジア雑貨ではないが、出来る限り価格を押さえているので、欧米ブランドの白蝶貝のアクセサリーに比べればとても安い。白蝶貝の価値を知っている消費者の方々には「安いですね!」とおっしゃっていただいている。

    ■MAAMsオリジナル白蝶貝のアクセサリー:
    山盛りブローチ、リング、髪飾り、ピアス、イヤリング、帯留め等

    ■茶蝶貝のオリジナルアクセサリ-
    茶蝶貝は、真珠は作らないが、貝そのものが蝶の羽の形をしているため「茶蝶貝」と呼ばれるモカ茶色で玉虫色に光る貝である。その落ち着いた色合いは白蝶貝に負けずとも劣らない。この貝を使った白蝶貝同様のデザインアクセサリーもMAAMsの定番作品である.

    白蝶貝はアクセサリーだけではなく小皿やスプーンなど食器としての需要もある。天然素材であるため安心して使えるところも魅力だ。長さのあるスプーンは白蝶貝一枚から数本しかとれず、とても贅沢なスプーンだ。 白蝶貝の加工工程
    白蝶貝の加工工程
    ある時小さなルビーを埋め込んだスプーンを作っている工房を見つけた。スプーンにしてはびっくりするほど高額だったが、素材の価値を考えたら手頃な価格だった。白に赤いルビーが映えてとても可愛らしかったので一本だけ購入し、展示会でディスプレーをした。本物のルビーであることは間違いなかったが証明する「鑑定書」が無かったため、非売品としてのディスプレーだった。しかし「非売品」という表示には魔力があるようだ。「どうしても譲って欲しい」と、おとなしそうな若い女性から頼まれた。思い切って頼んでみたという感じで、自分の部屋に飾って置きたいと言う。「このスプーンはこの女性のためにここにあるのだ」と思った。こうして手元から「非売品」として保管して置きたかった商品が一つ、また一つ、旅立って行った。

    葉脈や花を彫り込んだシンプルなデザインの小皿は食器としてもインテリアとしても使えて魅力的だが、仏陀や観音様を彫ってあるものは、金色に光る淵の部分がまるで光背のようで神々しい。ある日、付き合いの長い白蝶貝の工房を訪ねると、お店の一番奥にある棚の一番上に「観音様」を彫った見事な白蝶貝が立ててあった。赤いベルベットの皿立てに立つ白蝶貝の観音様にはジャスミンの花がかけあった。店主に「見せて欲しい」と頼んだが手離したくないらしく、「非売品」と言った。今度は私が「どうしても欲しい」と頼んだ。「特別だよ」と、しぶしぶ、それでも嬉しそうに譲ってくれた。「どうしても欲しい」という言葉は私に限らず販売する側にとって嬉しいものだ。

    この「観音様」は「非売品」としてまだ手離さずに手元に置いている。

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  • 蓮の布 ぐうし

    蓮の布(ぐうし)

    ミャンマーの中部にあるインレー湖畔では、昔から重要な仏教儀式に、蓮の茎から採取した繊維を織った布を高僧に寄進する習慣がある。蓮の茎(葉の茎)を折ると微細な粘り気のある繊維が出てくるが、これを何本も束ねて糸(ぐうし)に紡ぎ、それを手機で織ってゆくという時間と根気の要る作業が必要で、最近では入手が難しく非常に高価な素材となっている。欧米のファッション界でも最高級アパレルの素材として注目をあびている。


    15年前、私達は蓮の布を使ったおそらく世界初の「メンズジャケット」を作った。銀座のある高級ブティックオーナーがミャンマーを訪れた際、蓮の布を使った衣料品を作りたいという相談を受けた。企画は、ミャンマーから蓮の布をタイに持ち込み、タイで実績のあるデザイナー兼テーラーに仕立てさせるというものだった。その場合「Made in Thailand」になってしまう。私達は「Made in Myanmar」で販売してもらうことを強く進言した。布そのものがミャンマー人の真髄に触れると言っても過言ではないからである。ミャンマー人は男女ともにロンジーと呼ばれる筒型の巻きスカートを身につけている。輸入商品がどんどん入り生活様式が変化しつつある今でも、街を歩く人々の50%はロンジー姿である。市場で自分の気に入った布を購入し、テーラーで仕立ててもらうのが普通。このためミャンマーには大小たくさんのテーラーがある。政府の幹部達も外遊の際にはスーツ(ジャケット、ズボン)も街のテーラーで仕立てていた。このテーラーを探し蓮の布でメンズジャケットを作る最初の試みを行った。

    蓮のレディースショール
    蓮のレディースショール

    当時、今のような知名度はなかったものの、アジア織物の収集家は既に蓮の布を使った帯などをミャンマーで試みていた。欧米人はショールなどを企画し、少しずつ価格が高騰し始めていたころである。布を織っているインレー湖では観光客用に糸を紡ぐデモンストレーションが始まっていた。糸は重さで価格が決まるため、麻や綿を混ぜて利益を挙げようとする傾向も見られた。100%蓮の繊維を保証するためには外国人ではなくミャンマー人同士のやり取りが必要不可欠であった。また、蓮の布は糸の継ぎ目(コブ)がたくさんあり、厚みがある。帯にはいいかもしれないが、ジャケットのように縫製する場合、素材としては若干無理があった。

    蒸気をあてて高圧プレスにかけると布が落ち着き縫製しやすくなるため、プレスした場合、しない場合と試行錯誤を繰り返し、ようやくメンズジャケットが完成した。世界初のMade in MyanmarのLotus jacketである。このサンプルが決めてとなり、銀座の高級ブティックでMade in Myanmarのレディースジャケットも同時に販売された。

    MAAMsでは今、蓮の布を使ったポシェットやポーチなど、もっと気軽に身につけていただけるファッションアイテムを中心に企画している。マンダレー刺繍を組み合わせたり、ミャンマーらしさを加えたオリジナル商品である。ショールも含め、もちろんMade in Myanmarである。

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  • タティングレース

    タティイングレース

    タティングレースはシャトルと糸を使って結びの連続でモチーフを作るレース。結びの起源は古代エジプトに遡る。英国のビクトリア時代に王族貴族に親しまれたレースでもあり、その清楚で優雅な美しさはレース好きな人に限らず虜にしてしまう。日本でも明治以来ミッションスクールや修道院でタティングの技法が伝えらたが、19世紀末に英領となったミャンマーにも同様にして伝えられたと言われている。作品作りには長い時間を要し、あまり大きな作品は見られない。150年の時を経て殆どのモチーフはミャンマーオリジナルとなっていて、ミャンマーの作り手はタティングレースでショールやチュニックのような衣料品を作る。

    15年前、事務所のスタッフがレースのチュニックを着ていた。たちまち彼女の着ているレースの持つ清楚な魅力の虜になった。どこで購入したのかと聞くと彼女の実家から送られてきたという。タティングレースというレースだとその時初めて知った。彼女の実家のあるタウンジー(シャン州)にこのレースを編む人が比較的多いのだそうだ。私達はまずタティングレースがミャンマーの伝統工芸なのかどうか、ルーツを調べることから始めた。

    文献によると、イギリスから伝わったという説と船乗りが伝えたという2つの説があった。19世紀末、ミャンマーが英領になった際、裕福な英国人がタウンジーに別荘を持ち、避暑に訪れていた。女性達がタティングレースを編んでいたため、その優雅な姿に憧れたミャンマー人女性が始めたのでは、という説である。もう一つは、船乗りが寄港した土地でタティングレースを知り、長い船旅の時間をレース編みに充てていたのでは、という説で漁網を作る技法がタティイングレースの技法と似ていることが裏付けとなっていた。私達は日本でタティイングレースに関連する情報を集めることにした。
    チュニック
    チュニック

    当時、タティングレースの本は1種類しか出版されておらず、その著者にコンタクトをとった。後で知ったことだが、その著者は日本におけるレース専門の一人者でもあり、欧米諸国でも知られるタティイングレースの作家でもあった。アポイントの条件として「蓮の布が欲しい」という申し出があり、ちょうど蓮のプロジェクトが進行していたため少し差し上げることにした。

    ミャンマーのタティングレースを見せると、まず使っている糸について「通常よく撚ったレース編み用の綿糸を使うが、ミャンマーの糸は手芸用のウール・ポリエステル混紡のふわふわとした糸で、このような糸を使うことは殆どない」ことが判明した。タティングレースはシャトルに巻いた糸を「ねじって」「ひっぱって」コブを作っていくため、撚りがあまいと起毛してしまって理屈からいえば不可能なのだそうだ。この糸を使ってきれいなモチーフを作っているということは技術力が高いのだろうということであった。もしくは編む時の手の動かし方がミャンマー独特なものなのかもしれない、という。そして、通常タティングレースはとても時間がかかるため、小さな作品(もともとはビクトリア王女時代のティアラになっていた)が殆どで、ミャンマーのように幅40センチ、長さ180センチのような大きなショールを作ることは殆ど不可能とのことであった。ましてチュニックのような衣料品は考えられないし、綿糸を使ってしまったら硬くなってしまうため大きなショールや衣料品には適さず、ミャンマーの人達が使用している糸に意味があると知った。

    つまり、英国から伝わったものであろうが、漁師が伝えたものであろうが、既にミャンマーのタティングレースは彼らオリジナルの工芸品になっている、ということである。 私達は「Made in Myanmarの工芸品を」という強いポリシーを持っていた。そして10年前からタティングレースを日本で販売することを始め、今ではアクセサリーも販売している。白蝶貝同様、アジアの手作りクラフトとしては若干高めかもしれないが、タティングレースの作品としてはとてもとても安い。タティングレースの価値を知る消費者からは「安いですね!」と驚かれることもしばしばだ。 MAAMsではミャンマーならではの大きなショール、チュニックのような衣料品、バックのようなファッション雑貨、アクセサリーなどを販売している。強い希望があればオーダーメイドも受けているが、衣料品についは1~2年間待っていただくこともある。それだけ時間も手間もかかるレースなのである。

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  • 綿・絹織物 天然染め

    綿・絹織物 天然染め

    ロンジーという筒型の巻きスカートと、その柄に合わせたエンジーというブラウスを着用するミャンマー人にとって、素材となる布は日常生活に欠かせないものである。特に女性は他の人と違う柄のロンジーを求めるため、市場の布売り場には床から天井まで届くのど布が積み上げられている。バリエーションを豊富にしておかなければお客が来ないのである。それゆえにミャンマーは織物の大産地である。

    特にマンダレーは王宮があったため王族の衣装として絹織物が盛んであった。今でもマンダレーは織物の供給地として隆盛を極め、マンダレーには政府直轄の織物学校もある。 国内需要はもとより有望な輸出産品にも成りうる織物は、ミャンマー政府にとって漆器同様に技術の伝承とさらなる発展が必要不可欠であり、伝統的な技法を含め織物の技術を伝授する職業訓練校が各地にある。それらの学校で教える指導者を養成するのがマンダレーにある織物学校である。

    15年前、マンダレーの織物学校で当時途絶えていた天然染めを復興させた。縁あってこの復興事業に立ち会った私達は、ミャンマーの天然染めをいち早く日本で販売し始めた。マンダレーの織物学校
    マンダレーの織物学校
    ミャンマーの蚕は野蚕のものもあるが養蚕のものもある。比較的はりのある糸で、織りあげた後もパリッとしている。手紡ぎ、機械紡ぎ、手織り、機械織りと布の種類は豊富で、天然染めの復興事業の参加者の中には、その後も熱心に試行錯誤を繰り返し、独特の色に染め上げた手紡ぎの糸を手機織で素晴らしい布に仕上げる小さな織物工房もいた。彼女のセンスの良さはずば抜けていた。色の出し方、織柄の入れ方など、他のどの工房よりも垢ぬけていた。彼女の布には英国から注文が来るようになり、私達も彼女の工房に通い、色や糸を指定してショールや「のれん」を作ってもらい販売した。

    しかし、織物学校も自分達で稼がなければならないので、復興事業に参加した民間の工房は徐々に仕事をしづらくなったと聞いた。結局彼女も織物から遠のいてしまった。織物学校は現在も天然染めを熱心に続けている。学校へ注文をすることも可能であるが、政府の学校であるために設備が充分ではなく、いまだに電話でしか注文をすることが出来ない。国際電話は殆ど不可能であるため、Mayさん、SuSusさんがコンタクトを取り注文をするが、国内の電話も上手く繋がらず、発注に手間取ることこの上ない。 学校の中には真面目に天然染めに取り組んでいる先生もいる。天然染め復興事業に参加して今なお継続している数少ない人達をカウンターパートにして私達は彼女達の作品を販売し続けている。

    復興プロジェクト当時、ミャンマーには藍染も途絶えていた。藍の種類は日本のものとは異なるが、マンダレー周辺に藍そのものは自生していた。葉を入手して日本からの染色専門家が泥藍を作ることを試みたが上手くいかなかった。その後、日本のファッション雑誌に「藍の葉を使った生葉染めをする染色家」が掲載されていること知り、その方にコンタクトをして生葉染めの技法を教えてもらった。方法は単純で、葉を絞って色を出し、直接糸に染みこませるという内容であったが、新鮮な葉がたくさん必要だ。まずは藍を栽培する場所を近くに確保することから始めなければならなかった。藍の種をマンダレーの織物学校の庭にまくことを提案し、後のことは学校に託すしかなかった。

    藍の生葉染め
    藍の生葉染め

    ミャンマーの綿は大量生産向きの米綿もあるが、希少価値のあるアジアの原綿もある。アジア綿は短繊維であるため機械紡ぎは出来ない。手で紡ぐが、手紡ぎのために糸は若干太く、織り上がる布も厚めである。しかし糸にはストローのように空洞があり、その空洞が湿度、温度調整をするため、布が厚くても夏涼しく冬温かい。綿の産地はミャンマー中部の乾燥地帯。

    そこで頑固に綿の手紡ぎ、手織りを続けている女性がいた。日本に留学した経験もあり日本語を流ちょうに話した。彼女は復興事業が始まる前から独自に天然染めを試みていた。プロジェクトに参加し藍の葉を見せたら、幸運にも彼女の自宅近くに藍がるという。

    当初湿度や温度の調節が難しい泥藍を作ることは難しかったので、何とかブルーの色を出したいと、彼女に「生葉染め」を試みてみないかと持ちかけた。日本の染色作家は「絹糸は比較的染まりやすいため、藍の生葉から絞り出した色を吸収してくれるが、綿は難しい」とのことであった。しかし、さらに幸運なことに彼女は日本のあるプログラムに参加した際、生葉染めを見たことがあるという。早速彼女に生葉染めの工程を説明し、彼女の知識と合わせて、試し染めをしてみた。何回も繰り返し、彼女の指はブルーに染まっていた。そして、かつて見たことのないような淡い水色の綿織物が出来上がった。

    藍の生葉染めの綿織物を、私達は、のれんにしたり、布で販売したりしたが、とても人気があった。いわゆる藍染めの色ではなく、ほんのり緑色を含んだ淡いブルーは、生きた藍の葉そのものの優しい色であった。
    あれから10年、今ではなんとか泥藍も定着し、苦労して生葉で染める必要がなくなったという。ミャンマーの藍染は完全に復活したのかもしれない。しかし、あの綺麗なブルーの生葉染めは、あまりに手間暇がかかり過ぎるため頼みづらくなってしまった。

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  • 民族の布

    民族の布

    ミャンマーには135の民族から成る多民族国家。タイやインド、中国との国境地帯には色濃い伝統文化を持つ山岳民族も多い。彼らは自分達を象徴する布を身にまとう。自分達の生活や文化に根付いた布には味わいがあり、チン族、ナガ族、アカ族、カチン族、ラフ族などの個性豊かな布は「アジアの布」として欧米諸国の布収集家を魅了している。特にチン族の布は白と黒、エンジにアイボリーなど落ち着いた色で刺子のような柄を織りこむものもあり、布の収集家に限らずタペストリーやテーブルランナーのようなインテリア・ファブリックとして日本人でも人気がある。

    少数民族の布は腰機で織られる
    少数民族の布は腰機で織られる

    現地では肩掛けやショールとして使うので、布の端にフリンジが付いている。また幅40cmから50cmで長さも2m近くもあり、1.5m×2mのような大きめの布は飾る場所も限定されてしまうため、布の個性を活かして何か他の商品を企画できないか考えた。思い切って布を裁断することを考えたが、Mayさん、特にSuSuさんは「一枚の布であるから魅力があるものを裁断してしまっては…」とハサミを入れることをとてもためらっていた。ただ、日本での販売を考えるとタペストリーのようなインテリア目的で購入されることとは別の分野で布の魅力を活かしたかった。裁断した布を絵のように額装にしたり、スカートを作ってみたりと試行錯誤を重ね、オリジナル商品を企画し販売した。13年前の試みである。

    最近、ようやく少数民族の布をパッチワークなどで繋げた小物やバックなどが現地でも販売されるようになってきた。ただ、布そのものが高額なため、出来上がる小物も必然的に高くなり、現地で販売されている小物も決して安くはない。アジア雑貨は安値であると定着してしまった日本では販売が難しい分野かもしれないが、さらにチャレンジを続けたい。

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  • パペット

    パペット

    ミャンマーには伝統芸能の一つとして踊りと操り人形が一体となった舞台劇がある。踊り手と人形が同じ衣装を着て、同じ動きをする。くねくねと頭や手頸、足を動かして踊るのだが、踊り手の身体の柔らかさはもとより、同じ動きをするパペットも見事である。舞台のストーリーは王族時代を懐かしむような王子様、王女様の悲恋物が定番で、人形も登場人物に合わせて作られている。王子、王女の他に、ページボーイ(宮廷内で手紙を届けるメッセンジャーボーイ)、鬼、ガルーダ、ナッ神(よろずの神様)と当地ならではのユニークなものもある。 「パペットは売れないでしょう?」と言われることも多いが、人形が好きな方には大変魅力を感じる一品のようだ。しかしオリジナルデザインで作ることはとても難しい。

    サンタのパペット
    サンタのパペット
    広島の三越でクリスマスの特別イベントを企画した際、パペットの工房にサンタクロースを注文した。等身大のサンタパペットの素材は木、一人では運べないほど重かった。大きくてもくねくねと動かせる紐のついたあやつり人形には変わりない。まず立たせることに一苦労、頭を固定させ、手の位置を決めて…などとしている内に紐がこんがらがってしまいディスプレーどころではなくなってしまった。販売目的の高さ50cmのサンタはパペットとしては上手く出来ていたが、顔がとてもリアルだった。事前に工房に送ったサンプルはツリーに吊るす10cmほどの小さなサンタで、眼の青い、2等身のぷっくらとしたサンタだった。小さければ顔がリアルでも可愛いのだが、拡大されたために可愛さが薄れてしまった。まさにサンプル通りの顔で拡大してくれたのだから工房に非は無い。何十体も並らんだサンタは子供向けというより大人向けの個性的なサンタだった。あやつり人形として動くという面白さもあり、数点売れた。

    1週間のクリスマスイベントの最終日は12月25日。赤道を越え、海を渡って来てくれたミャンマーのサンタである。来年のクリスマスまで箱に入れたままにしたくなかった。たまたま来店された擁護施設の先生が「子供達に見せてあげたい」とおっしゃった。作ったサンタを全部、擁護施設に届けようと決めた。25日の夜、サンタを乗せて車を走らせ、擁護施設をいくつも回った。雪がちらちらと舞い、自分達が本当にサンタになったような気持ちになった。施設の子供達はミャンマーから来た動かせるサンタをとても喜んでくれた。たくさん売れるよりも子供達の笑顔が何より嬉しかった。

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  • パダウのローズウッド

    パダウのローズウッド

    パダウはミャンマーの国花である。雨季の訪れを教えてくれるというミャンマー人が愛する可憐な花である。早朝黄色の薄い花びらが開き、甘く優しい匂いがただよう。太陽が昇る頃にはしぼんでしまうのだそうだ。その儚さが人々に愛される所以かもしれない。木そのものも甘い香りがする。

    ミャンマーを訪れて一番印象深いのは、緑の多さである。元首都のヤンゴン(ラングーン)の街並みにも「何百年も前からずっとそこにあるような」大木の木々が枝をはり、緑を茂らせている。その中に小鳥が巣を作り、朝早く、パダウの花が咲く前から大合唱を始める。ミャンマーにはチークもあり、竹もある。それこそ数えきれないほどの種類の木があるのだろう。それでもミャンマーの「木」を見て思い出すのは、パダウの花と緑と小鳥の声である。このパダウを使った日本人の生活用具を作れないかと思った。ただ、十分に乾燥をしなければそったり割れたりしてしまうため、木の素材は難しい。

    パダウの黄色い花
    パダウの黄色い花

    ある時「ローズウッド」という名前を耳にした。尋ねてみると「こぶ木」のことで木の幹に傷が付くとその傷を保護しようと少しずつ出てくる樹液が長い年月をかけて固まった部分なのだそうだ。年輪ではなくてバラの花のような柄がある。ほのかに甘い香りがした。樹液の塊だから木本体よりも少しだけ強い匂いがした。

    名刺入れやスプーンの持ち手など、パダウのローズウッドを使った小物があることはあった。ただ、樹液の塊であるという特質から「割れる」こともあった。木が折れるのとは違った壊れ方である。木素材同様やはり充分な乾燥が必要であった。強い衝撃で欠けることもある。素材としてとても面白く、薔薇の花のように見える柄を活かした四角の箱や角皿のようなシンプルな形を極めた方がいいと思った。

    飛行場のお土産品店の中でパダウのこぶ木の小物を売っている店があると聞き、そのオーナーと知り合った30代そこそこのなかなか心の強い女性だった。日本の展示会に出展する商品を作ろうとしていたこともあり、新しい商品作りに熱心だった。彼女の立場は生産者ではなく工房に行ってデザインを説明し、こちらの注文を完璧に仕上げるまで何度でも工房と行ったり来たりするコーディネーター。

    木工工房が集まっているバゴーに車で2時間もかけて何度も往復してくれた。「ここをあと2ミリ小さく」、「この角を少し平らに」、「蓋の角はゆるいカーブをつけて」等々、発注者の意図をくまなく伝えようと、それはそれは細かい注文だった。何回も工房と往復する内に、だんだん肩が落ち、疲れが見えてきた。木工の職人さん達に何度も作り直しを頼むことが大変なことはよくわかった。それでも根を上げず「もう一回」、「これが最後」と最終製品へと導いた彼女の頑張りは素晴らしかった。笑いながら「バゴーの工房全部から嫌われちゃった」と話していた。せっかく作ったサンプルにさらに注文をつけられたら職人さんも面白くはないだろう。それでも「もしも売れたらたくさん注文するから」と彼らを説得した行動力には感服した。和菓子用の各皿、お寿司でも乗せられそうなお皿、文箱など最終的に出来上がった商品はどれも素晴らしかった。特に文箱は本当に素晴らしい出来栄えだった。

    日本の展示会では彼女の作品は完売だった。しかし、天然素材であること、一つ一つ素材の表情がちがうことなど日本側がよく理解できず、大量発注に応じることが出来なかった。その後もう一度角皿を数枚発注し在庫として持っていた。あれから15年の時を経て、素材には重厚感が増し、手放したくないと思いながら2013年に参加した銀座三越の展示会に置いた。ストーリーのある良い品は、良い人の手へと渡る。売りたくないと高値を付けていたが、その値段でも全部欲しいと、島根県からいらっしゃったという品の良い女性の手にわたった。お煎茶のお手前をならっているとのことで、私が話したストーリーとともに、お茶会で使うとおっしゃってくださった。そんな商品をこれからまた作れるだろうか。

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  • 木彫

    木彫

    ミャンマーは木材資源の豊富な国である。建築資材として有名なチークもあれば香木もあるが、手先が器用な国民らしい繊細な木彫にはあまり出会わなかった。むしろダイナミックな彫りが多い。大きな寺院の5メートルもあろうかという扉がこの透かし彫りである。透かし彫りにしても非常に細く彫り込んでいる部分と大まかな部分が混在し、最終仕上げとしては繊細さよりもダイナミックさが際立つ。20cm位の小さな透かし彫りもあるが小さくてもやはりダイナミックな彫りである。マンダレーが木彫の産地であるが、工房には未完の大きな作品が雑然と重なり合っている。いい作品を探すためには足を棒にして歩き回り、気に入った作品を選ぶしかない。湿度の高い国であるためか、箱はあまり作らない。反ってしまって蓋が閉まらなくなったり本体が割れしまったりと実用品としては問題がある。

    ある日、チーク材に彫り込みを入れた見事な「からくり箱」を作っている工房があると聞き、その工房を訪ねた。そこは他の工房と異なりきれいに片づけられていて、ガラスケースには小さな仏像や僧侶が並んでいた。その一つに眼が留まった。高さ20cmくらいの座像だ。細面の何とも美しい顔立ち、首から肩の綺麗な線、姿勢の良さ、特に後ろ姿の背中のラインの美しさに優しさが漂っていた。「からくり箱」も素晴らしく、この工房のオーナー自身の作品であった。箱はもちろんのこと、どうしても仏像が欲しいと申し出ると「手離したくない」という返事。自分が満足する仏像というのはそうそう出来上がらないのだそうだ。そこをどうしてもと、仏像と僧侶の木彫を購入した。仏像と僧侶は売り場の「お守り」としてディスプレーした。もちろん非売品である。

    この仏像は多くのお客様を惹きつけ「売って欲しい」という要望が絶えなかった。褒められると嬉しくなり、非売品でも売ってしまうことが多かったが、この仏像だけは手離したくなかった。 木彫は小さな動物はシリーズで、大きめなものは象などを販売していた。

    毎月同じ曜日に来店し、動物を購入してくださるお客様がいた。木彫がお好きなようだった。来店される度に「仏像を売ってください」と頼まれ、ついに「注文したい」と言う。詳しくお話を伺ってみると「山口で葬儀屋を営んでいる。ミャンマーの仏像と仏教儀式に使用する道具を全て揃えたい」というお話だった。敬虔な仏教徒の国であるミャンマーの仏像を置き、大らかに穏やかにお見送りするようで葬儀をプロデュ-スしてみたい、という。その熱心さに動かされたが、希望する仏像は等身大である。早速Mayさんに連絡をしたが、あの工房のオーナーは他界してしまっていた。別の彫師の仏像の写真を送ってもらったが、やはり彫師によって姿、顔は全く異なる。結局仏像の注文は諦めていただくしかなかった。それでも、どうしても葬儀に使えるようなミャンマーの木彫が欲しいと、遺影の両側に置く高さ1メートルの花台を注文された。この花台は無事納品出来、チーク材を使い、蓮の葉がダイナミックに彫り込まれ、ずっしりと重く、見事な出来栄えであった。 そしてあの仏像と僧侶である。

    売り場がオープンした当初から一月に2度3度とお立ち寄りくださる、とても品の良いご夫人がいた。「手作りのものが大好きで」と小さなものから大きな作品まで色々とお選びいただいた。ご主人と一緒にいらっしゃることもあり、やはり仏像と僧侶をとても気に入ってくださっていた。「いいお顔ですよ、本当に」と穏やかにおっしゃってくださった。ご夫婦のお宅の玄関扉はミャンマーのチーク材だった。「20年前にタイへ旅行した時注文したのですよ。本当に届くかどうか、半信半疑出で。」と懐かしそうにおっしゃっていた。毎年一回塗装をし直し、大切にされていると伺った。 私達が広島三越の売り場を去ると決めた時「あなた達がいなくなったら寂しくなります」とおっしゃってくださった。最後まで名残惜しそうに木彫りの仏像と僧侶をご覧になっていて、遂にこのご夫婦にお譲りする決心をした。

    ・・・・・ あれから何年か経って、またマンダレーのあの工房を訪ねた。ガラスケースには遺作となった作品が並んでいたが、もう数点しかなかった。オーナーの娘さんが細々と工房を守っていた。私達のことを覚えていて、懐かしそうに父親の話をしてくれた。数点並んでいる仏像はやはりとても美しい顔立ちをしていた。また「どうしても」と、一体譲ってもらった。

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  • レディースウェア

    レディースウエア

    ミャンマーを訪れる外国人は皆、ミャンマー女性が身につけているロンジー、エンジーを「着てみたい」と思う。特別格式ばった民族衣装ではないが、これほど身体の線を綺麗に見せる衣装はない。ロンジーとは筒状の巻きスカート、エンジーとはウエスト丈のブラウスである。 ミャンマー女性は、市場でまずロンジー用の布を選び、その布にあったエンジーの布を探す。お気に入りのテーラーに行き、自分の体型に合わせて縫製を頼むが、単純な縫製のように見えて実はテーラー次第で着用した際の美しさが全く異なる。綺麗に仕立てるテーラーはあっという間に大人気となる。

    レディースウェアチームメンバーのススさんは人気No.1のデザイナー(テーラー)で、彼女のデザインしたエンジーは、ふくよかな女性はすっきりと、細身の女性は曲線をやわらかく見せる不思議な力があり、着てみると違いがはっきりとわかる。このエンジー、ロンジーを「そのままの形で」日本で流行させることが出来ないかと思った。エンジーとロンジーをセットで着なくても、ジーパンにエンジー、Tシャツにロンジーでも、如何様にでもアレンジを楽しめるからだ。彼女のデザインなら絶対に売れると信じていた。ハンガーにかけているだけでは良さがわからないが、布の面白さ、着用した時の満足感…。一度着てみれば絶対に満足をしてもらえると思った。 ミャンマーの伝統的な柄のあるもの、手紡ぎ、手織り、天然染の素材を使ったものと、ミャンマーの素材を活かしたススさんのエンジー、ロンジーをトルソーに着せ、ディスプレーをした。また、個性的なミャンマーの布を使ってジャケットやベストも作った。どれも彼女の作品らしい綺麗なラインのものだった。

    通常ファッションの分野はデザインや色はその年の流行に左右されるが、彼女のエンジー、ロンジーは定番として毎年販売出来るものであった。大量生産の製品ではなく、一枚一枚丁寧に作られたジャケットやベストは他のブランドにない良さがあり、入荷するとすぐに売れた。「日本全国に流行させる」までは行かなかったが、少なくとも広島三越の私達のお客様には人気のアイテムであった。ロンジーは街着として、自宅でお客様をもてなす時のおしゃれ着として、20代から60代までの幅広い層の方々に楽しんでいただいた。 ミャンマーがまだ閉ざされていた頃、ススさんはパンツやワンピースなど色々なデザインを試みていた。せめて着るものだけでも新しい自由な雰囲気を楽しみたいという女性心理だったかもしれない。

    レディースウェア実際にロンジー、エンジーよりもスカートやパンツを好む女性が一時期増えた。トップデザイナーとしてはいち早く色々な作品を手がけたいという気持ちはよくわかった。しかし、日本で販売する立場としては、同じようなどこでも手に入るデザインよりも、ミャンマーならではの特徴のある作品の方が良かった。何より彼女のエンジー、ロンジーには女性を素晴らしく美しく演出する強みがあると信じていたからだ。ススさんに、どんな作品でもススさんらしいミャンマーの伝統的な形を決して失わないように頼んだ。

    ミャンマーには今自由な空気が満ちている。ブランド品も含め色々な衣料品も簡単に手に入るようになったが、少し落ち着いてみると、やはりロンジー、エンジーを着た時の心地よさ、美しさを女性達は忘れられないようだ。今また再びススさんのお店には人気が殺到している。エンジーは一人の顧客が10枚、20枚と注文するため、初めての注文は3ヶ月から半年待ちと聞く。

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  • 映画

    Kayan BeautiesとAung Ko Latt監督

    現在商品を置かせていただいている「ギャラリーやすこうち」は、賑やかな六本木交差点から離れた静かな住宅街にある。お店は路面店、仕事をしながらガラス張りのドアから表の通りが見える。お店に商品を置かせていただくようになってからすぐ、看板を出した。「ミャンマーの手仕事に触れてみませんか」というキャッチコピーと一緒に商品の写真がある。

    2012年10月のある日、ディスプレーを直しながらふと表を見ると、男性が3人、看板の前に立っていた。特にその中の一人は看板を見てとても驚いている様子だった。思わずドアを開けると、ミャンマー語が聞こえた。「中に入りませんか?ミャンマーのハンディクラフトを販売しています。」とミャンマー語で声をかけた。こちらを見て穏やかな微笑みとともに近づいてきた男性は「びっくりした。こんなに綺麗にミャンマーのものを売っているなんて」と日本語で話した。流暢な日本語だった。一緒にいたミャンマー人はこの日本語を話す男性を「六本木ヒルズで開催されている「東京国際映画祭」に招待されたミャンマーの非常に有名な映画監督」と説明した。有名な映画監督と聞いてもあまりにも気さくで人懐こい笑顔から実感がわかなかった。 私は他の2人に気を遣って英語で話をした。販売しているミャンマーのハンディクラフトについて1時間ほども話をした。別れ間際には「苦労があったね。大変だったね」と胸にしみるような日本語だった。「日本語がとてもお上手ですね。どうしてそんなに上手なのですか?」と聞くと、他の2人に理解させるように英語で「あなたがミャンマーを愛しミャンマー語を話すように、私も日本を愛しているから日本語ご話します」と答え、「何か困ったことがあったら連絡をしてね。」名刺をくれた。「Aung Ko Latt」と書いてあった。

    Aung Ko Latt監督(左)
    Aung Ko Latt監督(左)
    翌2013年5月ミャンマーへ買い付けに行くことになった。Aung Ko Lattさんに連絡するとすぐに返信があり、彼の作品「Kayan Beauties」がASEAN国際映画祭で審査員特別賞を受賞したという。そこで改めて彼が映画監督であることを再認識し、知り合いのミャンマー人に聞くと「ミャンマーでは知らない人がいないくらい有名な映画監督」だと知った。

    ヤンゴンに到着し、「Aung Ko Latt Motion Pictures」というサインボードのある事務所に到着すると彼のスタッフが出迎えてくれた。事務所には撮影用のカメラが並び、彼自身の大きなポスターもあった。少し緊張して待っていると「お疲れ様です」と初対面の時と変わらない人懐こい笑顔と優しい日本語でAung Ko Lattさんが登場した。まさに「登場した」というシーンだった。 日本語、ミャンマー語、英語を交えて色々な話しをした。

    Aung Ko Lattさんは日本で映画技術を勉強したと言う。多くは語らなかったが、言葉の壁や生活習慣の違いから苦労したことは良くわかった。それでも「日本のおかげで今の自分がある」と、お世辞ではなく日本人に対して本当に心から感謝をしてくれていた。こちらが気恥ずかしなるくらいだった。 「Kayan Beauties」について聞くと、カヤン族という少数民族が自分達のハンディクラフトを売るために街に出てくることから始まるストーリーで、少数民族に関連する様々な問題に一歩踏み込んだ内容だった。彼が日本で映画技術の勉強をしていた頃に日本で知り合ったHectorさんというアメリカ人が脚本を書いたという。

    Hectorさんは現在ニューヨーク在住の、やはり既に実績の豊富な脚本家とのことだった。Hectorさんがどんなに良い人か、事務所のスタッフがどんなに頑張っているか、「自分一人では出来なかった」と熱く語るAung Ko Lattさんに、自分の思いが重なった。カヤン族の民族衣装
    カヤン族の民族衣装
    事務所にはKayan族の民族衣装、アクセサリー、バスケットなどの生活用具がディスプレーされていた。ミャンマー人ですら本物を見る機会はない位珍しいものばかりだった。 映画で主役を演じた女性が着た衣装やアクセサリーや道具だという。「触ってもいいですか?」と許可を得て手を出したのだが、周りのスタッフは心配そうに見ていた。

    帰国後の6月に「ギャラリーやすこうち」で「アジアの風は南から」というイベントを企画し、7月には銀座三越の「ビンテージのある素敵な暮らし展」という催事に参加すると話すと、「全部貸してあげるからディスプレーしていいよ」と言う。「いいのですか?」と返事も出来ずに唖然としていると、「全部箱に詰めて」とスタッフに指示をしている。スタッフも「いいのですか?」という顔をしていた。「早く箱に詰めて」とスタッフに鋭い指示を出し、「お互いに苦労している身だから助け合わないとね」と穏やかに笑う。 普通ならミャンマーから国外に持ち出すことが難しいようなものばかりである。

    お借りした衣装、道具は無事日本へ到着し、2度の展示会でディスプレーをした。展示会場では「Kayan Beauties」の予告編をパソコンで流した。来場者の中には「百科事典でしか見たことのない民族の衣装です」と、「本当に本物ですか?」と目を丸くする人もいた。改めてAung Ko Lattさんの好意に感謝した。

    監督との出会いは、「Kayan Beauties」の日本初の上映へと発展した。株式会社共同通信社とASEANセンターが共催して東京で試写会が開かれたのだ。共同監督のHectorさんも来日し、ミャンマーの映像産業を紹介するセミナーでは「日本とミャンマーのコラボで日本で映画を撮りたい」と将来の熱い思いを語っていた。ここでも彼は「自分の成功は日本人のおかげ」を繰り返していた。

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商品が出来るまで

私たちの商品は全てミャンマーから日本に届くまで情熱と努力の結晶です。商品一つ一つが出来るまでの道のりを少しご紹介します。

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